とあとが困りますから……」
「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ」
「だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
 道也先生はしばらく沈吟《ちんぎん》していたが、やがて、机の前を立ちながら「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし」と云った。
 例の袴《はかま》を突っかけると支度《したく》は一分たたぬうちに出来上った。玄関へ出る。外はいまだに強く吹いている。道也先生の姿は風の中に消えた。
 清輝館《せいきかん》の演説会はこの風の中に開かれる。
 講演者は四名、聴衆は三百名足らずである。書生が多い。その中に文学士高柳周作がいる。彼はこの風の中を襟巻《えりまき》に顔を包んで咳《せき》をしながらやって来た。十銭の入場料を払って、二階に上《あが》った時は、広い会場はまばらに席をあましてむしろ寂寞《せきばく》の感があった。彼は南側のなるべく暖かそうな所に席をとった。演説はすでに始まっている。
「……文士保護は独立しがたき文士の言う事である。保護とは貴族的時代に云うべき言葉で、個人平等の世にこれを云々《うんぬん》するのは恥辱の極《きょく》である。退いて保護を受くるより進んで自己に適当なる租税を天下から払わしむべきである」と云ったと思ったら、引き込んだ。聴衆は喝采《かっさい》する。隣りに薩摩絣《さつまがすり》の羽織を着た書生がいて話している。
「今のが、黒田東陽《くろだとうよう》か」
「うん」
「妙な顔だな。もっと話せる顔かと思った」
「保護を受けたら、もう少し顔らしくなるだろう」
 高柳君は二人を見た。二人も高柳君を見た。
「おい」
「何だ」
「いやに睨《にら》めるじゃねえか」
「おっかねえ」
「こんだ誰の番だ。――見ろ見ろ出て来た」
「いやに、ひょろ長いな。この風にどうして出て来たろう」
 ひょろながい道也先生は綿服《めんぷく》のまま壇上にあらわれた。かれはこの風の中を金釘《かなくぎ》のごとく直立して来たのである。から風に吹き曝《さら》されたる彼は、からからの古瓢箪《ふるびょうたん》のごとくに見える。聴衆は一度に手を
前へ 次へ
全111ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング