持ってくる。煙草に火を点《つ》ける間《ま》はなかった。
「これは樽麦酒《たるビール》だね。おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙《あ》げようじゃないか」と青年は琥珀色《こはくいろ》の底から湧《わ》き上がる泡《あわ》をぐいと飲む。
「何の祝杯を挙げるのだい」と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。
「卒業祝いさ」
「今頃卒業祝いか」と高柳君は手のついた洋盃《コップ》を下へおろしてしまった。
「卒業は生涯《しょうがい》にたった一度しかないんだから、いつまで祝ってもいいさ」
「たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ」
「僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え? 鮭《さけ》か。ここん所《とこ》へ君、このオレンジの露をかけて見たまえ」と青年は人指指《ひとさしゆび》と親指の間からちゅうと黄色い汁を鮭の衣《ころも》の上へ落す。庭の面《おもて》にはらはらと降る時雨《しぐれ》のごとく、すぐ油の中へ吸い込まれてしまった。
「なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った」
姿見の札幌麦酒《さっぽろビール》の広告の本《もと》に、大きくなって構えていた二人の男が、この時急に大きな破《わ》れるような声を出して笑い始めた。高柳君はオレンジをつまんだまま、厭な顔をして二人を見る。二人はいっこう構わない。
「いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ」
「エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え? ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ」
土鍋《どなべ》の底のような赭《あか》い顔が広告の姿見に写って崩《くず》れたり、かたまったり、伸びたり縮んだり、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に動揺している。高柳君は一種異様な厭な眼つきを転じて、相手の青年を見た。
「商人だよ」と青年が小声に云う。
「実業家かな」と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞《しぼ》るのをやめてしまった。
土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。
「おい中野君」
「むむ?」と青年は鳥の肉を口いっぱい頬張《ほおば》っている。
「あの連中《れんじゅう》は世
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