。
「どこへ行ったんだい」と青年が聞く。
「今ぐるぐる巡《まわ》って、休もうと思ったが、どこも空《あ》いていない。駄目《だめ》だ、ただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。なかなか抜目《ぬけめ》はないもんだな」
「天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟宗藪《もうそうやぶ》を回って噴水の方へ行く人を見たまえ」
「どれ。あの女か。君の知ってる人かね」
「知るものか」
「それじゃ何で見る必要があるのだい」
「あの着物の色さ」
「何だか立派なものを着ているじゃないか」
「あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ」
「そうかな」
「そうかなって、君そう感じないか」
「別に感じない。しかし奇麗《きれい》は奇麗だ」
「ただ奇麗だけじゃ可哀想《かわいそう》だ。君はこれから作家になるんだろう」
「そうさ」
「それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ」
「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」
「ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢《あ》ったものだから、もう一遍あるこうじゃないか」
「あるくのは、真平《まっぴら》だ。これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午食《ひるめし》を食い損《そく》なう」
「その午食を奢《おご》ろうじゃないか」
「うん、また今度にしよう」
「なぜ? いやかい」
「厭《いや》じゃない――厭じゃないが、始終|御馳走《ごちそう》にばかりなるから」
「ハハハ遠慮か。まあ来たまえ」と青年は否応《いやおう》なしに高柳君を公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺望《ちょうぼう》のいい二階へ陣を取る。
注文の来る間、高柳君は蒼《あお》い顔へ両手で突《つ》っかい棒《ぼう》をして、さもつかれたと云う風に往来を見ている。青年は独《ひと》りで「ふんだいぶ広いな」「なかなか繁昌《はんじょう》すると見える」「なんだ、妙な所へ姿見の広告などを出して」などと半分口のうちで云うかと思ったら、やがて洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へ手を入れて「や、しまった。煙草《たばこ》を買ってくるのを忘れた」と大きな声を出した。
「煙草なら、ここにあるよ」と高柳君は「敷島」の袋を白い卓布《たくふ》の上へ抛《ほう》り出す。
ところへ下女が御誂《おあつらえ》を
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