みかん》の味はしらず、色こそ暖かい。小春《こはる》の色は黄である。点々と珠《たま》を綴《つづ》る杉の葉影に、ゆたかなる南海の風は通う。紫に明け渡る夜を待ちかねて、ぬっと出る旭日《あさひ》が、岡《おか》より岡を射《い》て、万顆《ばんか》の黄玉《こうぎょく》は一時に耀《かがや》く紀の国から、偸《ぬす》み来た香《かお》りと思われる。この下を通るものは酔わねば出る事を許されぬ掟《おきて》である。
緑門《アーチ》の下には新しき夫婦が立っている。すべての夫婦は新らしくなければならぬ。新しき夫婦は美しくなければならぬ。新しく美しき夫婦は幸福でなければならぬ。彼らはこの緑門の下に立って、迎えたる賓客にわが幸福の一分《いちぶ》を与え、送り出す朋友《ほうゆう》にわが幸福の一分を与えて、残る幸福に共白髪《ともしらが》の長き末までを耽《ふけ》るべく、新らしいのである、また美くしいのである。
男は黒き上着に縞《しま》の洋袴《ズボン》を穿《は》く。折々は雪を欺《あざむ》く白き手拭《ハンケチ》が黒き胸のあたりに漂《ただよ》う。女は紋つきである。裾《すそ》を色どる模様の華《はな》やかなるなかから浮き上がるがごとく調子よくすらりと腰から上が抜け出でている。ヴィーナスは浪《なみ》のなかから生れた。この女は裾模様のなかから生れている。
日は明かに女の頸筋《くびすじ》に落ちて、角《かど》だたぬ咽喉《のど》の方はほの白き影となる。横から見るときその影が消えるがごとく薄くなって、判然《はっき》としたやさしき輪廓《りんかく》に終る。その上に紫《むらさき》のうずまくは一朶《いちだ》の暗き髪を束《つか》ねながらも額際《ひたいぎわ》に浮かせたのである。金台に深紅《しんく》の七宝《しっぽう》を鏤《ちりば》めたヌーボー式の簪《かんざし》が紫の影から顔だけ出している。
愛は堅きものを忌《い》む。すべての硬性を溶化《ようか》せねばやまぬ。女の眼に耀《かがや》く光りは、光りそれ自《みず》からの溶《と》けた姿である。不可思議なる神境から双眸《そうぼう》の底に漂《ただよ》うて、視界に入る万有を恍惚《こうこつ》の境に逍遥《しょうよう》せしむる。迎えられたる賓客は陶然《とうぜん》として園内に入る。
「高柳さんはいらっしゃるでしょうか」と女が小さな声で聞く。
「え?」と男は耳を持ってくる。園内では楽隊が越後獅子《えちごじし》を奏
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