している。客は半分以上集まった。夫婦はなかへ這入《はい》って接待をせねばならん。
「そうさね。忘れていた」と男が云う。
「もうだいぶ御客さまがいらしったから、向《むこう》へ行かないじゃわるいでしょう」
「そうさね。もう行く方がいいだろう。しかし高柳がくると可哀想《かわいそう》だからね」
「ここにいらっしゃらないとですか」
「うん。あの男は、わたしが、ここに見えないと門まで来て引き返すよ」
「なぜ?」
「なぜって、こんな所へ来た事はないんだから――一人で一人坊《ひとりぼ》っちになる男なんだから――、ともかくもアーチを潜《くぐ》らせてしまわないと安心が出来ない」
「いらっしゃるんでしょうね」
「来るよ、わざわざ行って頼んだんだから、いやでも来ると約束すると来ずにいられない男だからきっとくるよ」
「御厭《おいや》なんですか」
「厭って、なに別に厭な事もないんだが、つまりきまりがわるいのさ」
「ホホホホ妙ですわね」
きまりのわるいのは自信がないからである。自信がないのは、人が馬鹿にすると思うからである。中野君はただきまりが悪いからだと云う。細君はただ妙ですわねと思う。この夫婦は自分達のきまりを悪《わ》るがる事は忘れている。この夫婦の境界《きょうがい》にある人は、いくらきまりを悪るがる性分《しょうぶん》でも、きまりをわるがらずに生涯《しょうがい》を済ませる事が出来る。
「いらっしゃるなら、ここにいて上げる方がいいでしょう」
「来る事は受け合うよ。――いいさ、奥はおやじや何かだいぶいるから」
愛は善人である。善人はその友のために自家の不都合を犠牲にするを憚《はば》からぬ。夫婦は高柳君のためにアーチの下に待っている。高柳君は来ねばならぬ。
馬車の客、車の客の間に、ただ一人高柳君は蹌踉《そうろう》として敵地に乗り込んで来る。この海のごとく和気の漲《みなぎ》りたる園遊会――新夫婦の面《おもて》に湛《たた》えたる笑の波に酔うて、われ知らず幸福の同化を享《う》くる園遊会――行く年をしばらくは春に戻して、のどかなる日影に、窮陰《きゅういん》の面《ま》のあたりなるを忘るべき園遊会は高柳君にとって敵地である。
富と勢《いきおい》と得意と満足の跋扈《ばっこ》する所は東西|球《きゅう》を極《きわ》めて高柳君には敵地である。高柳君はアーチの下に立つ新しき夫婦を十歩の遠きに見て、これがわが友で
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