し腹を立てても仕方がないでしょう。――しかし腹も立てようによるですな。昔し渡辺崋山《わたなべかざん》が松平侯の供先《ともさき》に粗忽《そこつ》で突き当ってひどい目に逢《あ》った事がある。崋山がその時の事を書いてね。――松平侯御横行――と云ってるですが。この御横行[#「御横行」に傍点]の三字が非常に面白いじゃないですか。尊《たっと》んで御《おん》の字をつけてるがその裏に立派な反抗心がある。気概がある。君も綱引御横行と日記にかくさ」
「松平侯って、だれですか」
「だれだか知れやしない。それが知れるくらいなら御横行はしないですよ。その時発憤した崋山はいまだに生きてるが、松平某なるものは誰も知りゃしない」
「そう思うと愉快ですが、岩崎の塀《へい》などを見ると頭をぶつけて、壊《こわ》してやりたくなります」
「頭をぶつけて、壊せりゃ、君より先に壊してるものがあるかも知れない。そんな愚《ぐ》な事を云わずに正々堂々と創作なら、創作をなされば、それで君の寿命は岩崎などよりも長く伝わるのです」
「その創作をさせてくれないのです」
「誰が」
「誰がって訳じゃないですが、出来ないのです」
「からだでも悪いですか」と道也先生横から覗《のぞ》き込む。高柳君の頬《ほお》は熱を帯びて、蒼《あお》い中から、ほてっている。道也は首を傾けた。
「君《きみ》坂を上がると呼吸《いき》が切れるようだが、どこか悪いじゃないですか」
強《し》いて自分にさえ隠そうとする事を言いあてられると、言いあてられるほど、明白な事実であったかと落胆《がっかり》する。言いあてられた高柳君は暗い穴の中へ落ちた。人は知らず、かかる冷酷なる同情を加えて憚《はば》からぬが多い。
「先生」と高柳君は往来に立《た》ち留《ど》まった。
「何ですか」
「私は病人に見えるでしょうか」
「ええ、まあ、――少し顔色は悪いです」
「どうしても肺病でしょうか」
「肺病? そんな事はないです」
「いいえ、遠慮なく云って下さい」
「肺の気《け》でもあるんですか」
「遺伝です。おやじは肺病で死にました」
「それは……」と云ったが先生返答に窮した。
膀胱《ぼうこう》にはち切れるばかり水を詰めたのを針ほどの穴に洩《も》らせば、針ほどの穴はすぐ白銅ほどになる。高柳君は道也の返答をきかぬがごとくに、しゃべってしまう。
「先生、私の歴史を聞いて下さいますか」
「ええ
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