、聞きますとも」
「おやじは町で郵便局の役人でした。私が七つの年に拘引《こういん》されてしまいました」
道也先生は、だまったまま、話し手といっしょにゆるく歩《ほ》を運ばして行く。
「あとで聞くと官金を消費したんだそうで――その時はなんにも知りませんでした。母にきくと、おとっさんは今に帰る、今に帰ると云ってました。――しかしとうとう帰って来ません。帰らないはずです。肺病になって、牢屋《ろうや》のなかで死んでしまったんです。それもずっとあとで聞きました。母は家を畳んで村へ引き込みました。……」
向《むこう》から威勢のいい車が二梃束髪《にちょうそくはつ》の女を乗せてくる。二人はちょっとよける。話はとぎれる。
「先生」
「何ですか」
「だから私には肺病の遺伝があるんです。駄目です」
「医者に見せたですか」
「医者には――見せません。見せたって見せなくったって同じ事です」
「そりゃ、いけない。肺病だって癒《なお》らんとは限らない」
高柳君は気味の悪い笑いを洩《も》らした。時雨《しぐれ》がはらはらと降って来る。からたち寺《でら》の門の扉に碧巌録提唱《へきがんろくていしょう》と貼《は》りつけた紙が際立《きわだ》って白く見える。女学校から生徒がぞろぞろ出てくる。赤や、紫や、海老茶《えびちゃ》の色が往来へちらばる。
「先生、罪悪も遺伝するものでしょうか」と女学生の間を縫いながら歩《ほ》を移しつつ高柳君が聞く。
「そんな事があるものですか」
「遺伝はしないでも、私は罪人の子です。切《せつ》ないです」
「それは切ないに違いない。しかし忘れなくっちゃいけない」
警察署から手錠《てじょう》をはめた囚人が二人、巡査に護送されて出てくる。時雨《しぐれ》が囚人の髪にかかる。
「忘れても、すぐ思い出します」
道也先生は少し大きな声を出した。
「しかしあなたの生涯《しょうがい》は過去にあるんですか未来にあるんですか。君はこれから花が咲く身ですよ」
「花が咲く前に枯れるんです」
「枯れる前に仕事をするんです」
高柳君はだまっている。過去を顧《かえり》みれば罪である。未来を望めば病気である。現在は麺麭《パン》のためにする写字である。
道也先生は高柳君の耳の傍《そば》へ口を持って来て云った。
「君は自分だけが一人坊《ひとりぼ》っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高な
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