渋蛇《しぶじゃ》の目《め》をさして鳩を見ている。あらい八丈《はちじょう》の羽織を長く着て、素足《すあし》を爪皮《つまかわ》のなかへさし込んで立った姿を、下宿の二階窓から書生が顔を二つ出して評している。柏手《かしわで》を打って鈴を鳴らして御賽銭《おさいせん》をなげ込んだ後姿が、見ている間《ま》にこっちへ逆戻《ぎゃくもどり》をする。黒縮緬《くろちりめん》へ三《み》つ柏《がしわ》の紋をつけた意気な芸者がすれ違うときに、高柳君の方に一瞥《いちべつ》の秋波《しゅうは》を送った。高柳君は鉛を背負《しょ》ったような重い心持ちになる。
 石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩崎《いわさき》の塀《へい》が冷酷に聳《そび》えている。あの塀へ頭をぶつけて壊《こわ》してやろうかと思う。時雨《しぐれ》はいつか休《や》んで電車の停留所に五六人待っている。背《せ》の高い黒紋付が蝙蝠傘《こうもり》を畳んで空を仰いでいた。
「先生」と一人坊《ひとりぼ》っちの高柳君は呼びかけた。
「やあ妙な所で逢《あ》いましたね。散歩かね」
「ええ」と高柳君は答えた。
「天気のわるいのによく散歩するですね。――岩崎の塀を三度|周《まわ》るといい散歩になる。ハハハハ」
 高柳君はちょっといい心持ちになった。
「先生は?」
「僕ですか、僕はなかなか散歩する暇なんかないです。不相変《あいかわらず》多忙でね。今日はちょっと上野の図書館まで調べ物に行ったです」
 高柳君は道也先生に逢《あ》うと何だか元気が出る。一人坊っちでありながら、こう平気にしている先生が現在世のなかにあると思うと、多少は心丈夫になると見える。
「先生もう少し散歩をなさいませんか」
「そう、少しなら、してもいい。どっちの方へ。上野はもうよそう。今通って来たばかりだから」
「私はどっちでもいいのです」
「じゃ坂を上《あが》って、本郷の方へ行きましょう。僕はあっちへ帰るんだから」
 二人は電車の路を沿うてあるき出した。高柳君は一人坊っちが急に二人坊っちになったような気がする。そう思うと空も広く見える。もう綱曳《つなひき》から突き飛ばされる気遣《きづかい》はあるまいとまで思う。
「先生」
「何ですか」
「さっき、車屋から突き飛ばされました」
「そりゃ、あぶなかった。怪我《けが》をしやしませんか」
「いいえ、怪我はしませんが、腹は立ちました」
「そう。しか
前へ 次へ
全111ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング