取り出す。門口《かどぐち》へ出て空を仰ぐと、行く秋を重いものが上から囲んでいる。
「御婆さん、御婆さん」
はいと婆さんが雑巾《ぞうきん》を刺す手をやめて出て来る。
「傘《かさ》をとって下さい。わたしの室《へや》の椽側《えんがわ》にある」
降れば傘をさすまでも歩く考である。どこと云う目的《あて》もないがただ歩くつもりなのである。電車の走るのは電車が走るのだが、なぜ走るのだかは電車にもわかるまい。高柳君は自分があるくだけは承知している。しかしなぜあるくのだかは電車のごとく無意識である。用もなく、あてもなく、またあるきたくもないものを無理にあるかせるのは残酷である。残酷があるかせるのだから敵《かたき》は取れない。敵が取りたければ、残酷を製造した発頭人《ほっとうにん》に向うよりほかに仕方がない。残酷を製造した発頭人は世間である。高柳君はひとり敵の中をあるいている。いくら、あるいてもやっぱり一人坊《ひとりぼ》っちである。
ぽつりぽつりと折々降ってくる。初時雨《はつしぐれ》と云うのだろう。豆腐屋《とうふや》の軒下に豆を絞《しぼ》った殻が、山のように桶《おけ》にもってある。山の頂《いただき》がぽくりと欠けて四面から煙が出る。風に連れて煙は往来へ靡《なび》く。塩物屋《しおものや》に鮭《さけ》の切身が、渋《さ》びた赤い色を見せて、並んでいる。隣りに、しらす干[#「しらす干」に傍点]がかたまって白く反《そ》り返る。鰹節屋《かつぶしや》の小僧が一生懸命に土佐節《とさぶし》をささらで磨《みが》いている。ぴかりぴかりと光る。奥に婚礼用の松が真青《まっさお》に景気を添える。葉茶屋《はぢゃや》では丁稚《でっち》が抹茶《まっちゃ》をゆっくりゆっくり臼《うす》で挽《ひ》いている。番頭は往来を睨《にら》めながら茶を飲んでいる。――「えっ、あぶねえ」と高柳君は突き飛ばされた。
黒紋付の羽織に山高帽を被《かぶ》った立派な紳士が綱曳《つなひき》で飛んで行く。車へ乗るものは勢《いきおい》がいい。あるくものは突き飛ばされても仕方がない。「えっ、あぶねえ」と拳突《けんつく》を喰《く》わされても黙っておらねばならん。高柳君は幽霊のようにあるいている。
青銅《からかね》の鳥居をくぐる。敷石の上に鳩が五六羽、時雨《しぐれ》の中を遠近《おちこち》している。唐人髷《とうじんまげ》に結《い》った半玉《はんぎょく》が
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