酸《ひさん》なる煩悶《はんもん》と云う。
 高柳君は床《とこ》のなかから這《は》い出した。瓦斯糸《ガスいと》の蚊絣《かがすり》の綿入の上から黒木綿《くろもめん》の羽織を着る。机に向う。やっぱり翻訳をする了簡《りょうけん》である。四五日《しごんち》そのままにして置いた机の上には、障子の破れから吹き込んだ砂が一面に軽《かろ》くたまっている。硯《すずり》のなかは白く見える。高柳君は面倒だと見えて、塵《ちり》も吹かずに、上から水をさした。水入《みずいれ》に在《あ》る水ではない。五六輪の豆菊《まめぎく》を挿《さ》した硝子《ガラス》の小瓶《こびん》を花ながら傾けて、どっと硯の池に落した水である。さかに磨《す》り減らした古梅園《こばいえん》をしきりに動かすと、じゃりじゃり云う。高柳君は不愉快の眉《まゆ》をあつめた。不愉快の起る前に、不愉快を取り除く面倒をあえてせずして、不愉快の起った時に唇《くちびる》を噛《か》むのはかかる人の例である。彼は不愉快を忍ぶべく余り鋭敏である。しかしてあらかじめこれに備うべくあまり自棄《じき》である。
 机上に原稿紙を展《の》べた彼は、一時間ほど呻吟《しんぎん》してようやく二三枚黒くしたが、やがて打ちやるように筆を擱《お》いた。窓の外には落ち損《そく》なった一枚の桐《きり》の葉が淋しく残っている。
「一人坊《ひとりぼ》っちだ」と高柳君は口のうちでまた繰り返した。
 見るうちに、葉は少しく上に揺れてまた下に揺れた。いよいよ落ちる。と思う間に風ははたとやんだ。
 高柳君は巻紙を出して、今度は故里《ふるさと》の御母《おっか》さんの所へ手紙を書き始めた。「寒気《かんき》相加わり候処《そろところ》如何《いかが》御暮し被遊候《あそばされそろ》や。不相変《あいかわらず》御丈夫の事と奉遥察候《ようさつたてまつりそろ》。私事も無事」とまでかいて、しばらく考えていたが、やがてこの五六行を裂いてしまった。裂いた反古《ほご》を口へ入れてくちゃくちゃ噛《か》んでいると思ったら、ぽっと黒いものを庭へ吐き出した。
 一人坊っちの葉がまた揺れる。今度は右へ左へ二三度首を振る。その振りがようやく収《おさま》ったと思う頃、颯《さっ》と音がして、病葉《わくらば》はぽたりと落ちた。
「落ちた。落ちた」と高柳君はさも落ちたらしく云った。
 やがて三尺の押入を開《あ》けて茶色の中折《なかおれ》を
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