っそくと》びに田舎へ行ったのは、地ならしをせぬ地面の上へ丈夫な家を建てようとあせるようなものだ。建てかけるが早いか、風と云い雨と云う曲者《くせもの》が来て壊《こわ》してしまう。地ならしをするか、雨風《あめかぜ》を退治《たいじ》るかせぬうちは、落ちついてこの世に住めぬ。落ちついて住めぬ世を住めるようにしてやるのが天下の士の仕事である。
 金《かね》も勢《いきおい》もないものが天下の士に恥じぬ事業を成すには筆の力に頼らねばならぬ。舌の援《たすけ》を藉《か》らねばならぬ。脳味噌《のうみそ》を圧搾《あっさく》して利他《りた》の智慧《ちえ》を絞《しぼ》らねばならぬ。脳味噌は涸《か》れる、舌は爛《ただ》れる、筆は何本でも折れる、それでも世の中が云う事を聞かなければそれまでである。
 しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱《しんぼう》する気遣《きづかい》はない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。今年の春、田舎から出て来て、芝琴平町《しばことひらちょう》の安宿へ着いた時、道也と妻君の間にはこんな会話が起った。
「教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか」
「別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」
「その内《うち》どうかなるだろうって、それじゃまるで雲を攫《つか》むような話しじゃありませんか」
「そうさな。あんまり判然《はんぜん》としちゃいない」
「そう呑気《のんき》じゃ困りますわ。あなたは男だからそれでようござんしょうが、ちっとは私の身にもなって見て下さらなくっちゃあ……」
「だからさ、もう田舎へは行かない、教師にもならない事にきめたんだよ」
「きめるのは御勝手ですけれども、きめたって月給が取れなけりゃ仕方がないじゃありませんか」
「月給がとれなくっても金がとれれば、よかろう」
「金がとれれば……そりゃようござんすとも」
「そんなら、いいさ」
「いいさって、御金がとれるんですか、あなた」
「そうさ、まあ取れるだろうと思うのさ」
「どうして?」
「そこは今考え中だ。そう着《ちゃく》、早々《そうそう》計画が立つものか」
「だから心配になるんですわ。いくら東京にいるときめたって、きめただけの思案《しあん》じゃ仕方がないじゃありませんか」
「どうも御前《おまえ》はむやみに
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