神よりも貴《たっと》しとは道也が追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつてこの文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。
 わからねばこそ餓《う》え死《じ》にもせぬ先から、夫に対して不平なのである。不平な妻《さい》を気の毒と思わぬほどの道也ではない。ただ妻の歓心を得るために吾《わ》が行く道を曲げぬだけが普通の夫と違うのである。世は単に人と呼ぶ。娶《めと》れば夫である。交《まじ》われば友である。手を引けば兄、引かるれば弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。さるを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足るほどの世間なら単純である。妻君は常にこの単純な世界に住んでいる。妻君の世界には夫としての道也のほかには学者としての道也もない、志士としての道也もない。道を守り俗に抗する道也はなおさらない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到《いた》る所に職を辞するのは、自から求むる酔興《すいきょう》にほかならんとまで考えている。
 酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎《いなか》へは行かぬと言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正《きょうせい》するには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今まではいずこの果《はて》で、どんな職業をしようとも、己《おの》れさえ真直であれば曲がったものは苧殻《おがら》のように向うで折れべきものと心得ていた。盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼《まなこ》を開かしむるため、取捨分別《しゅしゃふんべつ》の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟《りくつ》のよく分かる所に聚《あつ》まると早合点《はやがてん》して、この年月《としつき》を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身《わがみ》に、待ち受けたのは生涯《しょうがい》の誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随《したが》う影にほかならぬ。
 ここまで進んでおらぬ世を買い被《かぶ》って、一足飛《い
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