なぜこちらから世に容れられようとはせぬ? 世に容れられようとする刹那《せつな》に道也は奇麗《きれい》に消滅してしまうからである。道也は人格において流俗《りゅうぞく》より高いと自信している。流俗より高ければ高いほど、低いものの手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きにつくのは、自から多年の教育を受けながら、この教育の結果がもたらした財宝を床下《ゆかした》に埋《うず》むるようなものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、せっかくに築き上げた人格は、築きあげぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力だけを徒費した訳になる。英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、人格の修養に附随して蓄《たくわ》えられた、芸を教えたのである。単にこの芸を目的にして学問をしたならば、教場で書物を開いてさえいれば済む。書物を開いて飯を食って満足しているのは綱渡りが綱を渡って飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論において異なるところはない。学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽重《けいちょう》の等差を知る、好悪《こうお》の判然する、善悪の分界を呑《の》み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬《あや》まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。
 道也はこう考えている。だから芸を售《う》って口を糊《こ》するのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣《ろうれつ》と心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去就《きょしゅう》であるから、彼自身は内に顧《かえり》みて疚《やま》しいところもなければ、意気地がないとも思いつかぬ。頑愚《がんぐ》などと云う嘲罵《ちょうば》は、掌《てのひら》へ載《の》せて、夏の日の南軒《なんけん》に、虫眼鏡《むしめがね》で検査しても了解が出来ん。
 三度《みたび》教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄《てがら》を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位《じゅごい》をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは
前へ 次へ
全111ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング