よろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」
「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方《ほう》がテニスをするの、ね。いいでしょう」
「どっちでも同じでさあ」
「あら、あなた、御怒《おおこ》りなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか」
「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納《ゆいのう》の指輪なんです」
「誰と結婚をなさるの?」
「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」
「あら、お話しになってもいじゃありませんか」
「隠す訳じゃないが……」
「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」
「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」
「それじゃ、ずるいわ」
「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」
「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」
「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」
「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」
「だって名前を知らないんですもの」
「だからその先を話してちょうだいな」
「名前はなくってもいいのですか」
「ええ」
「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」
「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」
「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎《いなか》へ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合《あい》の指環《ゆびわ》を買って結納《ゆいのう》にしたのです」
「厭《いや》な方ね。不人情だわ」
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人《いじん》だから忘れちまったんです」
「ホホホホ異人だって」
「そこで結納も滞《とどこお》りなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の
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