る事を忘れている。
「好きって、いいじゃありませんか、古今《ここん》の傑作ですよ」
 女の批判は直覚的である。男の好尚《こうしょう》は半《なか》ば伝説的である。なまじいに美学などを聴いた因果《いんが》で、男はすぐ女に同意するだけの勇気を失っている。学問は己《おの》れを欺《あざむ》くとは心づかぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。
「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
「そう」と女は云ったばかりである。石火《せっか》を交《まじ》えざる刹那《せつな》に、はっと受けた印象は、学者の一言のために打ち消されるものではない。
「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想《れんそう》がある」
「どんな聯想なの」と女はおとなしく聞きつつ、双《そう》の手を立ちながら膝《ひざ》の上に重ねる。手頸《てくび》からさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣《きぬ》のうちに隠れる。衣は薄紅《うすくれない》に銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らしたような縞柄《しまがら》である。
 上になった手の甲の、五つに岐《わか》れた先の、しだいに細まりてかつ丸く、つやある爪に蔽《おお》われたのが好《い》い感じである。指は細く長く、すらりとした姿を崩《くず》さぬほどに、柔らかな肉を持たねばならぬ。この調《ととの》える姿が五本ごとに異ならねばならぬ。異なる五本が一つにかたまって、纏《まと》まる調子をつくらねばならぬ。美くしき手を持つ人は、美くしき顔を持つ人よりも少ない。美くしき手を持つ人には貴《たっと》き飾りが必要である。
 女は燦《さん》たるものを、細き肉に戴《いただ》いている。
「その指輪は見馴《みな》れませんね」
「これ?」と重ねた手は解《と》けて、右の指に耀《かがや》くものをなぶる。
「この間父様に買っていただいたの」
「金剛石《ダイヤモンド》ですか」
「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」
「あんまり御父さんを苛《いじ》めちゃいけませんよ」
「あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ」
「そりゃ珍らしい現象ですね」
「ホホホホ本当ね。あなたその訳《わけ》を知ってて」
「知るものですか、探偵《たんてい》じゃあるまいし」
「だから御存じないでしょうと云うのですよ」
「だから知りませんよ」
前へ 次へ
全111ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング