「金持ちです」
「うん立派な家《うち》にいますね。君はあの男と親密なのですか」
「ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです」
「いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ」
「何だかしかし、こう、一人坊《ひとりぼ》っちのような気がして淋しくっていけません」
「一人坊っちで、いいでさあ」と道也先生またいいでさあ[#「いいでさあ」に傍点]を担《かつ》ぎ出した。高柳君はもう「先生ならいいでしょう」と突き込む勇気が出なかった。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違《なかたがい》になる事が出来て来ます。妻《さい》にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」
高柳君はだまって下を向いた。
「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇《ヤソ》や孔子《こうし》ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気《のんき》に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者《にせぶんがくしゃ》ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」
高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木《きょうぼく》にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋《つな》いでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋《さび》し気《げ》に笑った。
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在《おあ》りか」
「母だけ田舎《いなか》にいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母《おっか》さんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業した
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