》しいようですが……」
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興《すいきょう》な苦労をします。ハハハハ」と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。
「失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……」
「今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」
「随分御面倒でしょう」
「面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気《ばかげ》ています。まあいい加減に書いては来ますが」
「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗《あん》に中野春台《なかのしゅんたい》の事を釣り出そうとする。
「面白いの何のって、この間はうま[#「うま」に傍点]、うま[#「うま」に傍点]の講釈を聞かされました」
「うま[#「うま」に傍点]、うま[#「うま」に傍点]ですか?」
「ええ、あの小供《こども》が食物《たべもの》の事をうまうまと云いましょう。あれの来歴ですね。その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうま[#「うまうま」に傍点]だそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何《なに》にもつけなくてもいいのだそうだが、そこが小供に取って一番大切なものは食物だから、とうとう食物の方で、うまうまを専有してしまったのだそうです。そこで大人《おとな》もその癖がのこって、美味なものをうまい[#「うまい」に傍点]と云うようになった。だから人生の煩悶《はんもん》は要するに元へ還《かえ》ってうまうま[#「うまうま」に傍点]の二字に帰着すると云うのです。何だか寄席《よせ》へでも行ったようじゃないですか」
「馬鹿にしていますね」
「ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ」
「しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね」
「なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真面目《まじめ》だけれどもなかなか突飛《とっぴ》なのがあってね。この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。もっとも若い人ですがね」
「中野じゃありませんか」
「君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった」
「私の同級生です」
「ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから」
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