ら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖《ふ》えちゃ、ちょっと、口を得《う》るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ?」と道也は何も知らぬ気《げ》である。
「先生は――あの――江湖雑誌《こうこざっし》を御編輯《ごへんしゅう》になると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱《げだつ》と拘泥《こうでい》と云うのがありましたが、あの憂世子《ゆうせいし》と云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出《ひょうしゅつ》したようなもので、利益を享《う》けた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下|唯一《ゆいいつ》の知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目《まじめ》に云った。
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞《ほ》めるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望《ほんもう》だが――随分|頓珍漢《とんちんかん》な事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴《やつ》ですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水《てんめいすい》とか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためで
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