》にして道具屋の前に立ち留まった。見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢《ひばち》が一番多く眼に着いた。しかし骨董《こっとう》と名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとり何とも知れぬ大きな亀の甲《こう》が、真向《まむこう》に釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子《ほっす》が尻尾《しっぽ》のように出ていた。それから紫檀《したん》の茶棚《ちゃだな》が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂《くるい》の出そうな生《なま》なものばかりであった。しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛物も屏風《びょうぶ》も一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入《はい》った。
 御米は無論夫が佐伯から受取った屏風《びょうぶ》を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭《おかげ》で、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口を利《き》く事ができた。亭主は五十|恰好《かっこう》の色の黒い頬の瘠《こ》けた男で、鼈甲《べっこう》の縁《ふち》を取った馬鹿に大きな眼鏡《めが
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