その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔《むか》し父から聞いた覚《おぼえ》のある、朧気《おぼろげ》な記憶を好加減《いいかげん》に繰り返すに過ぎなかった。実際の画《え》の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもその実《じつ》はなはだ覚束《おぼつか》なかったのである。
 ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成《かたちづく》る原因となった。過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑《ほほえ》んだ。この日雨が上って、日脚《ひあし》がさっと茶の間の障子《しょうじ》に射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻《えりまき》ともつかない織物を纏《まと》って外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直《まっすぐ》に来ると、乾物《かんぶつ》屋と麺麭《パン》屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今|火鉢《ひばち》に掛けてある鉄瓶《てつびん》も、宗助がここから提《さ》げて帰ったものである。
 御米は手を袖《そで
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