って。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談《じょうだん》を云う女であった。宗助は
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 翌日宗助が眼を覚《さ》ますと、亜鉛張《トタンばり》の庇《ひさし》の上で寒い音がした。御米が襷掛《たすきがけ》のまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴《てんてき》の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団《ふとん》の中に温《ぬく》もっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否《いな》や、
「おい」と云って直《すぐ》起き上った。
 外は濃い雨に鎖《とざ》されていた。崖《がけ》の上の孟宗竹《もうそうちく》が時々|鬣《たてがみ》を振《ふる》うように、雨を吹いて動いた。この侘《わ》びしい空の下へ濡《ぬ》れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁《みそしる》と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中が濡《ぬ》れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿《は》いて、洋袴《ズボン》の裾《すそ》を一寸《いっすん》ば
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