「御米、御前《おまい》子供ができたんじゃないか」と笑いながら云った。御米は返事もせずに俯向《うつむ》いてしきりに夫の背広《せびろ》の埃《ほこり》を払った。刷毛《ブラッシ》の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐《すわ》っていた。はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。
 その晩夫婦は火鉢《ひばち》に掛けた鉄瓶《てつびん》を、双方から手で掩《おお》うようにして差し向った。
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗《きれい》に浮んだ。
「ちっと、面白くしようじゃないか。この頃《ごろ》はいかにも不景気だよ」と宗助がまた云った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着の事が題目になった。宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖《こそで》とかを強請《ねだ》られた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼《かせ》いでるんじゃないと云って跳《
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