、荏苒《じんぜん》の境に落ちついてはいられなかったのである。
そのうち薄い霜《しも》が降《お》りて、裏の芭蕉《ばしょう》を見事に摧《くだ》いた。朝は崖上《がけうえ》の家主《やぬし》の庭の方で、鵯《ひよどり》が鋭どい声を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭《らっぱ》に交って、円明寺の木魚の音が聞えた。日はますます短かくなった。そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽《さや》かにはならなかった。夫《おっと》が役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。
宗助は心配した。役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝《ひざ》を拍《う》った。その日は例になく元気よく格子《こうし》を明けて、すぐと勢《いきおい》よく今日はどうだいと御米に聞いた。御米がいつもの通り服や靴足袋《くつたび》を一纏《ひとまと》めにして、六畳へ這入《はい》る後《あと》から追《つ》いて来て
前へ
次へ
全332ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング