米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、
「駄目よ。いつの間《ま》にか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢の向《むこう》へ帰って来た。
「じゃ晩に何か御馳走《ごちそう》なさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定《かんじょう》した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。
「姉さん、兄さんは佐伯《さえき》へ行ってくれたんですかね」と聞いた。
「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥《くたび》れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》を取って火鉢《ひばち》の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。
「だから先刻《さっき》手紙を出しておいたのよ」と慰めるよう
前へ
次へ
全332ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング