彼は振り返って、
「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上った。
寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、絞《しぼ》りの兵児帯《へこおび》をぐるぐる巻きつけながら、
「今夜は久し振に論語を読んだ」と云った。
「論語に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、
「いや何にもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても癒《なお》らないそうだ」と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。
六
小六《ころく》はともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調《ととの》った。御米《およね》は六畳に置きつけた桑《くわ》の鏡台を眺《なが》めて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少し遣場《やりば》に困るのね」と訴えるように宗助《そうすけ》に告げた。実際ここを取り上げられては、御米の御化粧《おつくり》をする場所が無くなってしまうのである。宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側《まどぎわ》に据《す》えてある鏡の裏を斜《はす》に眺《なが》めた。すると角度の具合で、そこに御米の襟元《えりもと》から片頬が映っていた。それがいか
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