分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋《ポッケット》から取り出して来た粉薬を、温《ぬる》ま湯に溶《と》いて貰《もら》って、しきりに含嗽《うがい》を始めた。その時彼は縁側《えんがわ》へ立ったまま、
「どうも日が短かくなったなあ」と云った。
やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵《よい》の口《くち》から寂《しん》としていた。夫婦は例の通り洋灯《ランプ》の下《もと》に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡《うち》に、自分達の生命を見出していたのである。
この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産《みやげ》に買って来たと云う養老昆布《ようろうこぶ》の缶《かん》をがらがら振って、中から山椒《さんしょ》入《い》りの小さく結んだ奴を撰《よ》り出しながら、緩《ゆっ》くり佐伯からの返事を語り合った。
「しかし月謝と小遣《こづかい》ぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。ど
前へ
次へ
全332ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング