き》と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉《うれ》しかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後《あと》でも、しきりに彼の頭の中を徘徊《はいかい》した。彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。
 その時向うの戸が開《あ》いて、紙片《かみぎれ》を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
 中へ這入《はい》ると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべく余計取れるように明るく拵《こし》らえた部屋の二側《ふたがわ》に、手術用の椅子《いす》を四台ほど据《す》えて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入《しまいり》の前掛で丁寧《ていねい》に膝《ひざ》から下を包《くる》んでくれた。
 こう穏《おだ》やかに寝《ね》かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。それば
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