う気は無論起らなかった。
 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪《た》えかねて、抱き合って暖《だん》を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
 二人の間には諦《あきら》めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫《おっと》を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心《まごころ》ある妻《さい》の口を藉《か》りて、自分を翻弄《ほんろう》する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がつ
前へ 次へ
全332ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング