て、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫《おっくう》な事は滅多《めった》になかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前に寝《ね》かす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日《みそか》にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎《かげろう》のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極《きわ》めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
 上部《うわべ》から見ると、夫婦ともそう物に屈托《くったく》する気色《けしき》はなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、
「安さんは、
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