子《しょうじ》を開けたなり、しばらく肴から垂《た》る汁《つゆ》か膏《あぶら》の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉《た》てて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。
 食事を済まして、夫婦が火鉢を間《あい》に向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣《うっちゃ》っておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝《こようじ》を着物の襟《えり》へ差した。
 中一日《なかいちんち》置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻《しり》に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過《なりゆき》がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をし
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