「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」
 宗助は喪家《そうか》の犬のごとく室中を退いた。後に鈴《れい》を振る音が烈《はげ》しく響いた。

        二十

 障子《しょうじ》の外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞えた。宗助《そうすけ》は半睡《はんすい》の裡《うち》にはいと応《こた》えたつもりであったが、返事を仕切らない先に、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。
 二度目に眼が覚《さ》めた時、彼は驚ろいて飛び起きた。縁側《えんがわ》へ出ると、宜道《ぎどう》が鼠木綿《ねずみもめん》の着物に襷《たすき》を掛けて、甲斐甲斐《かいがい》しくそこいらを拭いていた。赤く凍《かじか》んだ手で、濡雑巾《ぬれぞうきん》を絞《しぼ》りながら、例のごとく柔和《やさ》しいにこやかな顔をして、
「御早う」と挨拶《あいさつ》した。彼は今朝もまたとくに参禅を済ました後《のち》、こうして庵に帰って働いていたのである。宗助はわざわざ呼び起されても起き得なかった自分の怠慢を省《かえり》みて、全くきまりの悪い思をした。
「今朝もつい寝忘れて失礼しました」
 彼はこそこそ勝手口から井戸端
前へ 次へ
全332ページ中305ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング