坐る所に、いつもの座蒲団《ざぶとん》を敷いて、その前にちゃんと膳立《ぜんだて》がしてあった。
宗助は糸底《いとぞこ》を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二三年来朝晩使い慣《な》れた木の箸《はし》を眺《なが》めて、
「もう飯は食わないよ」と云った。御米は多少不本意らしい風もした。
「おやそう。余《あんま》り遅いから、おおかたどこかで召上《めしや》がったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」と云いながら、布巾《ふきん》で鍋《なべ》の耳を撮《つま》んで、土瓶敷《どびんしき》の上におろした。それから清《きよ》を呼んで膳《ぜん》を台所へ退《さ》げさした。
宗助はこういう風に、何ぞ事故ができて、役所の退出《ひけ》からすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末《てんまつ》の大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。御米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒を呑《の》んだ事も、まるで話したくなかった。何も知らない御米はまた平常の通り無邪気にそれからそれへと聞きたがった。
「何別にこれという理由《わけ
前へ
次へ
全332ページ中274ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング