自分の家の格子《こうし》の前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
 幸《さいわい》に御米の産気《さんけ》づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆も緩《ゆっ》くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃《そろ》えてあった。産も案外軽かった。けれども肝心《かんじん》の小児《こども》は、ただ子宮を逃《のが》れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子《ガラス》の管のようなものを取って、小《ち》さい口の内《なか》へ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、効目《ききめ》はまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴《ほうふつ》した。しかしその咽喉《のど》から出る声はついに聞く事ができなかった。
 産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧《ていねい》に胎児の心臓まで聴診して、至極《しごく》御健全だと保証
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