たから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流《いどながし》の傍《そば》に置いた盥《たらい》の傍まで行って話をしたついでに、流《ながし》を向《むこう》へ渡ろうとして、青い苔《こけ》の生えている濡《ぬ》れた板の上へ尻持《しりもち》を突いた。御米はまたやり損《そく》なったとは思ったが、自分の粗忽《そこつ》を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体《からだ》にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助は固《もと》より妻を咎《とが》める意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際《まぎわ》まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、
前へ
次へ
全332ページ中194ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング