た暮に、夏の絽を買う人を見て余裕《よゆう》のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜《べんぎ》を説いた。そうして、
「なに、御払《おはらい》はいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙《めいせん》を一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
 織屋は負けた後《あと》でまた、
「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
 織屋はどこへ行ってもこういう鄙《ひな》びた言葉を使って通しているらしかった。毎日|馴染《なじ》みの家をぐるぐる回《まわ》って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽《かろ》くなって、しまいに紺《こん》の風呂敷《ふろしき》と真田紐《さなだひも》だけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕《ようさん》の忙《せわ》しい四月の
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