がえ》ったようにはっきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩|遠退《とおの》いた時のごとくに、胸を撫《な》でおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕《とら》えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念《けねん》が、折々彼の頭のなかに霧《きり》となってかかった。
 年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意《わざ》と短い日を前へ押し出したがって齷齪《あくせく》する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠《ぼうばく》たる恐怖の念に襲《おそ》われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走《しわす》の中《うち》に一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺《なが》めた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞《しま》も全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠《かご》が、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥が止《とま》り木《ぎ》の上をちらりちらりと動いた。
 頭へ香《におい》のする油を塗られて、景気のいい声を後《うしろ》から掛けられて、表へ出
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