結床《かみゆいどこ》の敷居を跨《また》いだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏《はさみ》の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮《あせ》るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙《せわ》しない響となって彼の鼓膜を打った。
 しばらく煖炉《ストーブ》の傍《はた》で煙草《たばこ》を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲《ま》き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱《いだ》いていたのである。
 御米《およね》の発作《ほっさ》はようやく落ちついた。今では平日《いつも》のごとく外へ出ても、家《うち》の事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所《よそ》に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生《よみ
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