躇《ちゅうちょ》していたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして、襖《ふすま》から顔を出した。その顔は酒気《しゅき》のまだ醒《さ》めない赤い色を眼の縁《ふち》に帯びていた。部屋の中を覗《のぞ》き込んで、始めて吃驚《びっくり》した様子で、
「どうかなすったんですか」と酔《よい》が一時に去ったような表情をした。
 宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれと急《せ》き立てた。小六は外套《マント》も脱《ぬ》がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰る間、清に何返《なんべん》となく金盥の水を易《か》えさしては、一生懸命に御米の肩を圧《お》しつけたり、揉《も》んだりしてみた。御米の苦しむのを、何もせずにただ見ているに堪《た》えなかったから、こうして自分の気を紛《まぎ》らしていたのである。
 この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほど苛《つら》いものはなかった。彼は御米の
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