の傍《はた》に鉄瓶《てつびん》の音を聞きながら、静な夜を丸心《まるじん》の洋灯《ランプ》に照らしていた。彼は来年度に一般官吏に増俸の沙汰《さた》があるという評判を思い浮べた。またその前に改革か淘汰《とうた》が行われるに違ないという噂に思い及んだ。そうして自分はどっちの方へ編入されるのだろうと疑った。彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾《いかん》とした。彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。したがってまだ欠勤届を出した事がなかった。学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事に差支《さしつか》えるほどの頭脳ではなかった。
 彼はいろいろな事情を綜合《そうごう》して考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁《ふち》を敲《たた》いた。その時座敷で、
「あなたちょっと」と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。
 座敷へ来て見ると、御米は眉《まゆ》を寄せて、右の手で自分の肩を抑《おさ》えながら、胸まで蒲団《ふとん》の外へ乗り出していた。宗助はほ
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