はい》ったが、やがて火が消えたと云って、火鉢を抱《かか》えてまた出て来た。彼は兄の家《いえ》に厄介《やっかい》になりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向《おもてむき》休学の体《てい》にして一時の始末をつけたのである。
九
裏の坂井と宗助《そうすけ》とは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。それまでは月に一度こちらから清《きよ》に家賃を持たしてやると、向《むこう》からその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、崖《がけ》の上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。
宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下を検《しら》べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米《およね》は始めて噂《うわさ》に聞いた家主の顔を見た。髭《ひげ》のないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外|丁寧《ていねい》な言葉を使うのが、御米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意し
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