のにね」と御米が云った。
「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」と小六が答えた。
 座敷の張易《はりかえ》が済んだときにはもう三時過になった。そうこうしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度《したく》も始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃《かみそり》を片づけた。小六は大きな伸《のび》を一つして、握《にぎ》り拳《こぶし》で自分の頭をこんこんと叩《たた》いた。
「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」と御米は小六を労《いた》わった。小六はそれよりも口淋《くちさむ》しい思がした。この間文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたと云う菓子を、戸棚《とだな》から出して貰って食べた。御米は御茶を入れた。
「坂井と云う人は大学出なんですか」
「ええ、やっぱりそうなんですって」
 小六は茶を飲んで煙草《たばこ》を吹いた。やがて、
「兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか」と聞いた。
「いいえ、ちっとも」と御米が答えた。
「兄さんみたようになれたら好いだろうな。不平も何もなくって」
 御米は特別の挨拶《あいさつ》もしなかった。小六はそのまま起《た》って六畳へ這入《
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