なかった。台所から清《きよ》が持って来た含嗽茶碗《うがいぢゃわん》を受け取って、戸袋の前へ立って、紙が一面に濡《ぬ》れるほど霧を吹いた。二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼ乾いて皺《しわ》がおおかた平らになっていた。三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと云い出した。実を云うと御米の方は今朝《けさ》から頭が痛かったのである。
「もう一枚張って、茶の間だけ済ましてから休みましょう」と云った。
茶の間を済ましているうちに午《ひる》になったので、二人は食事を始めた。小六が引き移ってからこの四五日《しごんち》、御米は宗助《そうすけ》のいない午飯《ひるはん》を、いつも小六と差向《さしむかい》で食べる事になった。宗助といっしょになって以来、御米の毎日|膳《ぜん》を共にしたものは、夫よりほかになかった。夫の留守の時は、ただ独《ひと》り箸《はし》を執《と》るのが多年の習慣《ならわし》であった。だから突然この小舅《こじゅうと》と自分の間に御櫃《おはち》を置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種|異《い》な経験であった。それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが
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