昨日《きのう》煮た糊《のり》を溶いた。
小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑《けいべつ》していた。ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観を抱《いだ》いて雑巾を手にしていた。昔し叔父の家で、これと同じ事をやらせられた時は、暇潰《ひまつぶ》しの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲から諦《あきら》めさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのこと癪《しゃく》に触った。
それで嫂《あによめ》には快よい返事さえ碌《ろく》にしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸《シャボン》と歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢《かしゃ》を思い浮べた。するとどうしても自分一人が、こんな窮境に陥《おちい》るべき理由がないように感ぜられた。それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも憫然《ふびん》に見えた。彼らは障子を張る美濃紙《みのがみ》を買うのにさえ気兼《きがね》をし
前へ
次へ
全332ページ中126ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング