うやく家《うち》へ入った。茶の間へ来て例の通り火鉢《ひばち》の前へ坐《すわ》ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。御米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。
「おい昨夜《ゆうべ》枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖《がけ》の上から宅《うち》の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走《ごちそう》まで置いて行った」
 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆《みんな》坂井の名宛《なあて》が書いてあった。御米は吃驚《びっくり》して立膝のまま、
「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことに因《よ》ると、まだ何かやられたね」と答えた。
 夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳《ぜん》に着いた。しかし箸《はし》を動かす間《ま》も泥棒の話は忘れなかった。御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。

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