た。しかし今朝《けさ》下女が結《い》ってやったというその髪は通例の庇《ひさし》であった。何の奇も認められない黒い光沢《つや》が、櫛《くし》の歯を入れた痕《あと》を、行儀正しく竪《たて》に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊《き》きたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕《ゆうべ》そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向《うつむ》いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息《ためいき》を吐《つ》くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑《おさ》えつけた
前へ
次へ
全746ページ中740ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング