そうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚《びっくり》した。――御帰り遊ばせ」
同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注《そそ》ぎかけた。それから心持腰を曲《かが》めて軽い会釈《えしゃく》をした。
半《なか》ば細君の嬌態《きょうたい》に応じようとした津田は半《なか》ば逡巡《しゅんじゅん》して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀《すずめ》よ。雀が御向うの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食ってるんでしょう」
津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖《ステッキ》」
津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取
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