質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇《よみがえ》った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児《まご》ついている今の自分に付着する間抜《まぬけ》さ加減《かげん》を他《ひと》に見せるのが厭《いや》だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己《おの》れの醜くさを人前に曝《さら》すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩《ほ》を回《めぐ》らそうとした刹那《せつな》に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超《こ》える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰《もら》おう」
彼は決心して姿見《すがたみ》の横に立ったまま、階子段《はしごだん》の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵《かかと》へ跳《は》ね上る上靴《スリッパー》の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃して
前へ
次へ
全746ページ中688ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング