になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興《すいきょう》も手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
廊下はすぐ尽きた。そこから筋違《すじかい》に二三度|上《あが》るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥《かなだらい》が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓《せん》の口から流れる山水《やまみず》だか清水《しみず》だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁《ふち》を溢《あふ》れる水晶《すいしょう》のような薄い水の幕の綺麗《きれい》に滑《すべ》って行く様《さま》が鮮《あざ》やかに眺められた。金盥の中の水は後《あと》から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪《しんとう》を感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所《おりばしょ》を彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓《せん》を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶《うかつ》さに気がついた。それと同時に、
前へ
次へ
全746ページ中683ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング