、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概《いちがい》に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓《たに》の存在を憶《おも》い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後《あと》を跟《つ》けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間《やまあい》の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑《の》み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者《ぎょしゃ》は馬の轡《くつわ》を取ったなり、白い泡《あわ》を岩角に吹き散らして鳴
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