ると古松《こしょう》らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍《ほんたん》の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時《ふじ》の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
 不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経《た》つ今日《こんにち》まで、いまだこの女の記憶を失《な》くした覚《おぼえ》がなかった。こうして夜路《よみち》を馬車に揺られて行くのも、有体《ありてい》に云えば、その人の影を一図《いちず》に追《おっ》かけている所作《しょさ》に違《ちがい》なかった。御者は先刻《さっき》から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止《よ》せばいいと思うのに、濫《みだ》りなる鞭《むち》を鳴らして、しきりに痩馬《やせうま》の尻《しり》を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐《あわ》れな動物が
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